RANAわあるど

日々感じたことを綴る

令和の家族の実像 メモ

大学での課題

家族に関する出来事や関心ある事件を取り上げ、そこから読み取れる「令和の家族の実像」を考察してください。

というものがあり、同大学の学生の意見を毎回先生が取り上げてくれるのでそれを読んで思ったことのメモ。

 

家族というものは

実はかなり脆弱なものなのではないか、

それでいて

「家族」に対し私たちはなぜかそれを

「当たり前なもの」として受け入れ

盲目的に強い望みをかけ過ぎているのではないか、という疑問が生じた。

 

考えてみれば、私は両親と血のつながりをもって戸籍上家族であり私の「親」であるが、

例えば私が本当は親との血のつながりがないのにそれがあるものとして(事実を隠されながら)育て上げられたとしても何の問題も生じ得ないのではないかとふと考えた。

 

あくまで家族は

人間の「認識」のうえの1つの概念

であり、

血のつながりや家族と形式上認める法律が

その関係を強めそれを保障してくれるわけではないと思う。

 

現に夫婦は血のつながりはないわけで、私たちの認識がその関係を家族にするのである。

婚外子の認知や普通養子・特別養子もその例である。

 

家族はお互いのことを深く知っていて理解があるのかもしれないが、

家族だからといって、やはりそれ以前に

相手は自分とは違う

人格を持った「一人の人間」

である以上すべてを無条件に受け入れられるわけでないのは当然だ。

 

考えるワーク(*講義内での課題名。他学生の意見を読んで)でもしばしば取り上げられていた、

妻からの家事という仕事をすべて押し付ける旦那への怒り、

というのは

夫婦という枠組みを取って考えれば、

2人の人間が一つの共有している仕事を

片方の人間に押し付けるというのは理不尽なものであり違和感や怒りを感じるのは至極当然のことなのである。

話し合いがされず双方の合意がないのに

家事はあなた、

逆に経済面を支えるのはあなた、

とその人の役割や負担する仕事量を

勝手に決めつけるのは夫婦どうこうではなく

友人同士であっても、ただの知り合いという関係であっても問題がある。

 

家族という認識は「他者への尊重」の気持ちを薄めてしまうような気がした。

 

ただでさえ、今は女性の社会進出や単身世帯の増加にも見て取れるように1人でも生きられる力、「自立」の風潮があり

「個人」としての色が強まる中で

家族だからこれくらい許されるといった考え方はその家族という認識上で成り立つ脆い関係性を崩してしまうだろう。

 

また、コロナ禍における親子関係の悪化や児童虐待にも言えることで、

 

親だから子のすべてを受け入れる、親だから子を育てるという考えはもはや通用しないのかもしれない。

 

今の憲法や法的枠組みは親は子供をもうけたら扶養の義務を課すが、これは当然に親が子を育てられるものとして想定されているからこそであり、大人が全員その子育てを達成できるだけの能力があるかという点について疑問である。

 

里親制度などからも分かるように、

 

例え血のつながりがなくとも同様のケアの役割を家族関係にない他者が担うことができるし、

 

実母が育てない方が子の成長に良い影響を与えるケースも潜在的に多くあるのかもしれない。

 

私たちは子は親に育てられるものとして当然にこの考え方を受け入れているが、

この固まった考え方こそが現代に見られるようになった多くの問題を引き起こしていることも十分に考えられる。

 

紆余曲折しまとまらないが、今後大切になるのは家族の一人一人を「一人の人間」として尊重する姿勢を忘れないことであると感じた。